2015年9月28日月曜日

対比の世界

by 梅津志保


「生死」をテーマに俳句を分類して鑑賞するという試みをしている。対比を意識してみようと思ったからだ。その時、この句を思い出した。

佛間まで磯蟹あがる暑さかな 小澤實

フェリスの講座で先生が紹介してくれて、その時からとても好きになった句だ。

浜辺の近くのどっしりとした日本家屋。その家の佛間に磯蟹があがってくるという驚き。でも、磯蟹はそれくらいのパワーがあると思わせる。民宿の駐車場に蟹がいて「こんなところに!」と思ったことを思い出す。蟹からすると棲み処である浜辺を縦横無尽に歩いているのだから、そんなに不思議なことではないのだけれど。「暑さかな」の季語が、蟹にますますパワーを与える。

「生死」でいうなら、最初は当然、「佛間」が「死」を連想させた。ところが、何度も読んでいるうちに、この句には、それだけではない、たくさんの対比が表現されているのではないかと思い、とても驚いた。まず、静かな佛間と動く蟹で「動と静」。そして、佛間の黒と磯蟹の赤で「黒と赤」。もしかすると祖先と今の「過去と現在」の意味もあるかもしれない。発見する喜び。

図書館で借りてきた句集が手元に数冊。どんな俳句に出会えるか、どんな発見があるか。スーパームーンの下で読み始める。

2015年9月21日月曜日

子規忌の夜に

by 井上雪子


9月19日、子規の居室の6畳間を訪れた。立膝のためのくりぬきのある座卓で感想ノートにペンを走らせていると、目の奥が熱くなる。糸瓜は大きくぶら下がり、所狭しと草や花やひと。この賑やかな庭を子規の自塑像が見つめる。

自作のその塑像は両手で包みこめるほどの小ささ、正確な立体感、眼などは竹べらか何かであっさりと線描きしたきり。大仰なことが嫌いな子規らしい静かな作品だ。紙粘土のような古びた白とも青とも茶色ともつかない。どこを視るともなく、何を語ろうというでなく、冬の顔だ。33歳前後の子規、繊細な、弱さにも似たこの何かにもまた、私は心を打たれる。

そして、展示品の中にあったお母上、八重さんの「子どもの頃はそれは円い顔で鼻が低くておかしな顔で、大人になってこんなに顔が変わるとは・・・」といった意味の母親目線の言葉が私にはなんだかうれしい。本当に多くの人々が愛し、多くの人々(百年以上後の私たちまでを含めて)を愛して逝った子規の人となりの礎がそこにあるように思える。世界の日本へと、この小さな家からとてつもなく広がっていったエネルギー、次の100年もまた、誰かの心に届くと思う。

子規とご家族のお墓を訪ったあと、ひとり、国会議事堂前で地下鉄を降りた。東京に住む女子高校生と私は普通に挨拶をし、北海道や京都から来た高校の先生や法学者の、ここからが新しい民主主義のスタートだという議事堂に向かって静かに続くスピーチを聞く。見守る警察官に地下鉄の駅を問えば、親切に案内してくれる。

だが、たったふたりに始まって国と国という大きな問題にまで、提案や意見の相違が問題の解決や決着を遅らせる。拉致、領海侵犯、核兵器・原子力発電、辺野古、貧困や難民、命のかかった急務が多々ある。それでも、ひとりひとりの考え、その多様さは当たり前の自由なんじゃないかな。異なる意見がタブーだなんて、恐ろしすぎる。だからこそ、理解し合うには、一緒に力を合わせるには、どこに向かって歩けばいいのだろうか。私は今、どこを歩いているのだろうか。

俳句はもちろん、スピーチではない(スピーチであることも自由かもしれないが)。生き生きと自由な心が悲しんだり歌ったり笑ったり、誰かの楽しみや小さな力になるものだと思う。だけど、みんなの幸福を夜空に描くには、私はまだまだ柔軟体操が足りない。制球力もない。背中の、子規の好きだったというお団子2本、無言。


◆子規庵(東京都台東区根岸)   「第15回特別展 子規の顔 その2」
   平成27年9月1日(火)~9月30日(水)
   (休庵日 7日(月)、14日(月)、24日(木)、28日)(月))
     開庵時間  10時30分~16時
     入庵料    500円


2015年9月14日月曜日

サカナクションと秋

by 梅津志保


「きっと言葉を大切にしている人だ。」テレビのテロップにサカナクションの歌詞が流れた途端そう思った。

NHKのサッカーの公式ソングだったらしい。歌詞の中には、苦しさや頑張ろうといった応援らしさは感じられず、ただ選手の精神性だけが描かれているように感じられた。それだけで十分なのかもしれない。それ以上のことは言えないのかもしれない。ひとつひとつの言葉の重み。歌詞がこんなにまで心に届いたのは久しぶりだった。

作詞をしたサカナクション山口一郎氏は、俳句を作るそうだ。余計な言葉が削られていることにも納得できる。

嫌いな言葉は「愛」だとインタビューで答えている。それは、やはり言葉を大切にしているからだと思う。歌詞になると「愛」という言葉は上滑りになる。愛ってもっと重くて深くて、大切な時に使う言葉だったはず。音楽の秋。歌詞という小さな詩にも注目してみたい。

2015年9月8日火曜日

ダウジング、コツコツ

by 井上雪子


再公募となってしまった2020年東京オリンピックのエンブレム、世界の目を意識したデザインが画像検索によって洗練されつつオリジナリティを持ちえなかった過程は、現在の表現の独自性(オリジナリティ)を妙な形で抉り出していたように思う。模範解答を探さざるを得なかったその志向性はひとごとではない。ひとの衣食住も、ひとそのものも個性とか独自性をさほど求められない日々に均質化しているのだろう。

日常的な印刷物やWebサイトでは類似や模倣もそこそこ許され、かつてないオリジナリティの這い出る隙はないとあきらめたくもなる。「真似はダメだけれどのびのび大胆に・・・」なんて鼓舞では足りない。もちろん無から有を生み出す宇宙的な天才もこの世にはいるが、多くの表現者たちは「どこかでみたような」、「いつか聞いたような」記憶の澱、意識や無意識の層をコツコツと掘り、まだ見たことも聞いたこともない鉱脈や水脈を探していく。だが、出る杭は打つ、空気を読む、LINEの鎖が伸びて来る。新しさの泉が干上がりかける。

表現のエンジンが一人きりの全力なら、その燃料は何だろう。真に個性的で独創的な表現は、お手本通りでなくても、みんなと異なっていても、それぞれを幸福な力として生きることを受けとめることから育まれるように思う。呑気なことは言っていられない世の中だ。だから、表現くらい思い切って出してみなよと自分に言う。俳句は古く、深く、新しい。安心して堀り続けて行こう。月の下でお団子を食べながら、のんびり、億単位の税金の使い道について喋ろう。