2015年1月19日月曜日

風の名前

by 梅津志保


河原の土手を犬を散歩しながら歩く。その日は風が強弱をつけて吹いている日で、私は全身に風を感じてぐんぐん歩く。

遮るものが無い空というのは、もうここにしか残されていないのかもしれない。凧を揚げている子供が数人いた。子供の後ろから見学させてもらう。父親が凧を見ながら子供に指示をする。子供が凧を操っているのだけど、凧が子供を引っ張っているようでもあり。子供と凧の真剣勝負は見ているだけで元気になる。

風にのって音楽が聞こえてきた。その方向に進むと、ラテン調のダンスを踊っている集団がいた。クルクルと回って、トントンと足でリズムを刻む。ふと、冬の大地に「起きよ、起きよ」と呼びかけているように思えた。太古の昔、私たちの祖先も、こんな風に踊ってきたのではないかと思いを馳せた。

私の周りにはたくさんの風が吹いている。それはただの風ではない。
初東風、北風、木枯、隙間風。風という一言で済ませるのではなく、耳を傾けて、肌で感じて、ひとつひとつの風の名前を大切にしたい。

2015年1月5日月曜日

御降や・・・で松の内に

by 井上雪子


御降や竹深々と町のそら  芥川龍之介


2015年、新しい一年の始まりですね。俳句ユニット「みつまめ」、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

さて、元日は横浜でも昼過ぎから雪になり、「御降(おさがり)」とはこういうものなのか、しばらく、洗濯物もそのままに眺め入りました。

12月の半ばにちょうど、実験的俳句集団『鬼』の代表を務めていらっしゃる復本一郎先生のお話を伺う機会に恵まれ、「御降(おさがり)」という新年の季語について、江戸時代からの歳時記を繙いていく深い面白さに感銘を受けたばかりでした。

元日に降る雨や雪というものから、三が日に・・・とするもの、松の内に・・・とするものなど、時代あるいは編者によってその定義が異なる「御降」、「ですから、季語は定義を厳密に取沙汰すること自体にはあまり意味がない」という復本先生の御説の柔軟さに驚かされました。

根拠を明確に持っているからこその「曖昧さの許容」、ありそうでないものなのだなあと思いました。

歳時記中の例句についても、その季語は主題として詠まれているのか否か、意識的に時間軸のなかで捉えていくそのまなざし、歳時記の深さがこれまで以上に深く思える学びとなりました。

また、昭和49年版の角川書店の『俳句歳時記』の例句が実に確かでよいというご指摘(歳時記を買うならこの年度のものがベストとか)、私が見過ごしてきた季語と歳時記と俳句との深い繋がり方が急にキラリと光って見えました。

読み、学ぶというなかに俳句の深さ楽しさがひろがりましたが、この珍しい元日の初雪、俳句にならない。というか、「積もらないように」なんて、仕事のことを思ってしまいました・・・。

今週は雨が降るらしいので、その日は会社休みます(と言ってみたい)。御降や・・・で松の内にできるといいなあ、なんて思うのです。