2014年12月8日月曜日

お~い、お茶でも。

by 井上雪子


粗忽ものの代表選手のような私だが、ごく時たま、とても美味しい煎茶を淹れることができ、 びっくり褒められたりするが、どうしてどうして、これはまぐれのようにしかできないこと。

ただ、なんとなく、お茶の葉やその量、水のおいしさやお湯の温度以上に、待つということ、見計らうということ、段取りとも気持ちの整え方ともいうものがおいしさを左右するように思っている。

いつも時間に追われるタイプの私には、ゆっくりていねいに何かをすることが難しいが、ゆっくりていねいに何かをすることが実は、忙しなさからの唯一の脱出口らしいということを最近、健康雑誌のコラムで読んだ。副交感神経が優位のリッラクス状態になる、ということらしい。なるほど、これは大きな逆転の一打。

一句の俳句にたどり着くまでに、私は多くの場合、切ったり削ったり、足したり換えたり・・・をパソコンで行う。それは彫塑に似た感じがし、詩の世界にいる幸福な時間であるように思う。けれどそんな推敲は、やはり俳句には向かないのだろう、俳句は次第に抽象画のような色彩のないsmall worldに紛れ込み、時々はっとして、原点まで帰ってくることになる。

稀に何かを見た瞬間、まるですんなり、一句のままひょいと俳句そのものが現れることもある。それは理想かなという感じがしなくもないが、お湯が冷めていく湯気の揺らぎのような時間、魔法のようにゆっくりと見えてくる俳句を見つけ出す時間、ていねいさということ、急がないということの大切さ、届ける力になっていく何かはそんなふうに言葉を支えていくようにも思う。

幸福で悲しくてすべきことが見えない、貧しくて懸命で理由がわからない切なさ、私の俳句はどうしてか、そんな場所を行ったり来たりしながら届きたいものらしい。

冬はこと、緑茶が美味しい。