2014年9月30日火曜日

立ち止まる

by 梅津志保


たくさんの俳句が私の中を通り過ぎてゆく。

そんな中「!」と立ち止まってしまう俳句に時々出会う。

軒の氷柱に息吹つかけて黒馬よ黒馬よ(臼田亞浪)

なぜこの俳句が私を揺さぶるのか。この俳句の持つ色の世界の美しさなのか、俳人の力なのか、私の今の心持ちなのか。
その全てかもしれないし、他にも何かあるのかもしれない。このことについては、今後もう少し深く、ゆっくりと考えてみたいと思う。ただ、この俳句を読むと、どんなに自分の心がざわざわしていても、私は、すっと雪原の軒下に立ち、黒い馬を見つめ、「静かな生」をいつでも感じることができて、また帰ってこれる、こんな俳句に出会えたということが、今は大きな喜びだ。

2014年9月16日火曜日

難病とユーモアと

by 井上雪子


8月の終わりころだったろうか、ALSアイスバケツチャレンジ。夕方のニュース番組でその映像を目にした折、私はかなり驚いた。まずはその明るさ、ニュース番組にはそぐわないほどの面白く美しい映像だった。作り物ではない美しさなのだ。ALSという難病への理解と支援、その善意に才あるひとの余裕の笑顔とびしょ濡れの勇気、そして、そのユーモアたっぷりな映像にほんの少しひっかかるものが残った。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、脳や末梢神経からの命令を筋肉に伝える運動ニューロン(運動神経細胞)が侵され体中の筋肉が動かせなくなってゆき、やがては死に向うという難病。五感(視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚)、記憶、知性を司る神経は侵されにくく、痛いという感覚はあるのに、身体を動かし、避けることができない。


そして、治療法は確立されていない。脳性マヒとも、脳梗塞などの後遺症ともまた異なる恐怖感、自覚的に耐える、もどかしくて気が狂いそうな日々、それは私には実感することができない。

ビル・ゲイツ、レディ・ガガ、孫正義や山中伸弥、みなさん、悪意のかけらもない。映像は明るく、笑いを誘い、ALSを理解し、共感し、支援しようとするその姿勢を尊敬や共感を持って見ていた。それでも、ALS患者さんへの優しさや温かさよりも、勝ち組のひとたちの強さ/いかなる時にもポジティブという強さにかすかに戸惑った。編集がそういう意図なのだろうか、そうであるならそのことを訝しく感じる。

勝ち負けの世界が苦手な私だから、そんなことを思うのだろうか。元気なアイスバケツチャレンジャーさんもまた、他者とは分かち合えない恐怖や苦しみを抱えてもいるだろう。だが、自分がALSだと告知されたり、パートナーがALSだと分かった時にも人はなお、強く明るく生きていかなければならないのだろうか、強さを求められるのだろうか。

治癒、という言葉がある。癒されるってなんだろうか、と考えてたどり着いたのは、「愛されているって十分、思わせてもらうってこと」。

ALSに苦しみ、ALSを乗り越えようとしている方々は、何よりも治療法の研究・発見を切望され、社会からの理解や支援を望まれているだろう。そしてたぶん、愛され、必要とされることを求めてもいるはずだと思う。


そして今、私がすべきこと。
「君たちを愛してる、君たちは愛されてるよ」という思い、悲しみや暗さや弱さは強さや笑い以上に大切にされるものだということ、「今ここに居ることそのものが価値」だという思いを、俳句という言葉の力の根として、世の中に届けていくこと。
他者の痛みに向き合い、心の深くを分かち合おうとするもう一つの世界、そんな韻文の世界からの温かな声を届ける力を少しづつでも磨いていこう。

2014年9月8日月曜日

秋の海岸にて

by 梅津志保


週末、海に行った。私は、家族がウィンドサーフィンで沖に出ている間、歳時記をぱらぱらめくったり、犬を連れて散歩をしたりする。

海には、いろいろな人が来る。営業終了の「海の家」を解体に来ている職人さん。そのそばでは「夏はまだ終わっていない」とばかりに海に飛びこむ三人の大学生風の男の子たち。赤ちゃんを連れた家族連れは、簡易的なテントをパッと広げて、ひと休み。お弁当を広げて食べたらすぐに立ち去る男性。乗馬に来ている人たちもいた。

みんな、好きな時間に来て、好きな時間に帰っていく。街や山で過ごす時間とはちょっと違う、成り行きの「海の時間」が流れているようだ。

海という大きなものだけ共有して、あとはみなさんご自由に。そんな大らかさが海にはある。いつも時間に追われている私は、そんなところが少し落ち着かない。
と、理屈っぽく言えばそうなのだけど、単純に、秋の海岸は、夏よりも人が少なくなり、風も涼しく、穏やかで好ましい。いつまでも、どこまでも歩いていけそうで、気がつくと夕方になっていて、「海の時間」に順応している私がいる。

2014年9月2日火曜日

季語の違和感

by 井上雪子


今年、神奈川県の横浜市では、7月末にはかなかなが鳴き、赤とんぼが飛び交っていました。
空にはすでに鱗雲。 この時期、雲といえば積乱雲、もくもくと立ち上っていくその勢いは、私にとっては夏の大きな楽しみの一つなのですが、今年はそれを見ないまま、9月に入りました。 

日暮れには蒼い富士山がくっきり、空気がきれいになったというだけではない何か。「積乱雲が見られない」というニュースは聞かないけれど、 天上の城のように聳えたつ夏雲の美しさを飛行機の小さな窓から飽かず眺めていたのはいつのこと。 ぼんやりと、わたしにとっての季語の栄枯盛衰(ってほどでないけど)を思いました。 

午睡、アイスクリーム、水着、腹巻、ナイター、ビアガーデン・・・・、言葉として懐かしむだけのものやことも増えますが、他方、新しい実感をもって響きだす季語も。 
たとえば、「台風」。自分のなかに広がる昨年までにはなかった微妙な違和感、わたし自身が戸惑うわずかな時間。

災害も戦闘も絶えないなか、ゆったりと広がる「季語」という文化(「個」ではなく「和」の文化)は、古くならない何かをその微かな違和感から彫り出していく力を試されつつ、どこかで新しい力となるような思いもします。

そしてまた、盆踊りの、揃って同じ動きをするリズム、好きか嫌いかはさておき、一夜、争いごとを忘れ、ひとつになってしまえるこの国のシュール。なおかつ、いつしか輪を離れ、月の客となる時間を待つのもまたこの国のルーツ。

俳句の原点/出発点には「ひとをおもうこと」が置かれている、その強さを思います。