2014年8月25日月曜日

未確認飛行物体

by 西村遼


その夜の散歩は、家を出た時からどこか面妖な感じがした。
どこかから見られているような、スポットライトを当てられているような、不快ではないが落ち着かないような気分。
だが気にもせず出かける。最近忙しくて、夜にぶらぶら歩き回れる時間は貴重なのだ。

近所のお決まりの散歩コースを歩いていると、坂の上の方からどろどろと音を立ててバイクがやってくる。すれ違いざま、ライダーが気分良さそうに口ずさんでいる歌が聴こえた。これは知ってる。フジファブリックというバンドの曲だ。

いつだって こんがらがっている 今だって こんがらがってる 僕の頭の中

ライダーの歌は一瞬で横を通り抜けて聴こえなくなった。自分もバイクに乗っているので気持ちはよく分かる。そういう時に赤の他人が視界に入ると恥ずかしくなって急に声が小さくなったりしまうものだが、さっきの人はこっちにまるで気づかないまま歌の世界に浸っていたようだ。けっこうなことである。

川の近くまで来ると涼しい風の匂いがした。このあたりは昼間は親子連れやお年寄り中心ににぎわっているが、夜になるとジョギング、楽器の練習、スケートボード、などなど、何かしら目的を持った人たちがやってきて、黙々と思い思いの時間を過ごしている。盛り場らしい場所もないこのへんでは貴重な、家の外でしたいことに打ち込める場所なのだろう。

それにしても今夜はなんだか人が多いような気がする。普段もトランペットやギターの練習をしている人は珍しくないが、それに加えて何やらアフリカの民族楽器みたいな音もするではないか。
音は丸木造りの休憩所から聴こえてきた。座った人影が地面の上に置いた小さな太鼓を手で叩いている。軽快でありつつも腹にくる低音。ぐっとくる。
きっとあの人も、今は誰のことも考えず、無心で太鼓のリズムに入り込んでいるんだろう。その孤独で楽しい世界。

2014年8月19日火曜日

水郷

by 梅津志保


時代小説好きな私は、江戸時代の面影を残す町並みを訪ねることが好きだ。今までも川越、栃木を訪れてきた。この夏は、「小江戸シリーズ第三弾佐原編」と称して、千葉県香取市佐原を訪ねた。

佐原では、江戸時代、醤油を作り、船運を利用して、江戸まで2週間かけて醤油を運んだという。今では、観光が盛んだが、生活の側にはいつも水があり、水と共に大切に町並を守ってきたからこそ、観光地として残り、今の私たちに昔の暮らしを教えてくれる。

残すべきもの、残さないもの、残せないもの。佐原の町は、残すべきものとしてこれからも残っていくだろう。

そして、この町に来て一番驚いたのは、周囲の水の豊富さだ。利根川を主体として、近くには霞ヶ浦や北浦などが広がり、水郷という言葉がふさわしい。
夏の日をはね返す水面はきらきら光り、周囲は青々とした夏草が茂り、心の奥にも水が広がっていき、満ち足りた気持ちになる。岸に押し寄せる「たぷんたぷん」という水音は、 2014年の私の夏の思い出となる。

2014年8月11日月曜日

順位があってはいけない世界

;by 井上雪子


「ダンサーは選手ではないし、芸術は競技ではない」。 
「日本人は一体いつまで世界で闘って勝つということばかりに重きを置き続けるのでしょうか」 、
「(バレエという芸術においては)ストイックな肉体の修練に加え、天性の際立った個性が欠かせません」。
7月26日、朝日新聞オピニオン欄、バレエ・ダンサーであり芸術監督を務める熊川哲也さんのインタビュー記事の言葉たち。 

バレエという芸術の本質、その未来のビジョンを真っ向から見据たブレのないその
言葉に驚きながら、バレエという語を音楽・文学・俳句などと置き換えたりしながら、何度も読みました。
 
私はいかなる未来に向かうのか、表現者としての豊かで厳しい自覚は、序列・順位づけの文化に翻弄され、貧しく細っていくバレエ/芸術の本質への、率直であるゆえに痛烈な問いかけと思います。



ワールド・カップにしろ、オリンピックにしろ、もはや勝つことだけを目的とした格闘技めいて、おおらかな他者への共感や尊敬や笑顔はリングの外に出てしまった気がしますが、

「そもそも芸術というものは、スポーツと本質的に異なり、順位があってはいけない世界です」という熊川さんの言葉には温かな力があり、歩き出すための力になり、勝ち負けを超えるものへと心がひろがります。
「どれだけ個性豊かなダンサーとして大成しているか」、バレエのこれからを豊かにするために提示された判断の軸はとてもシンプルで深い含蓄

人の身体、人間の思いの力を知り尽くしたひとのまなざしは明るく、厳しく、青空のように透明です。

 そして/もちろん、インタビューの結びの言葉は、とても謙虚です。 「偉大な作品の数々、尊敬する先人たち、支えてくれる周囲の人々、すべてに対する感謝の心が次のステップへと導いてくれると信じます」 。

本当にかっこいい。

2014年8月4日月曜日

グラデーション

by 西村遼


最近は西東三鬼の自伝的小説『神戸』(講談社文芸文庫)を読んでいる。 
自分も以前神戸に住んでいたことがあり、小説の中で描かれる町並みや空気感にどことなく親密なものを感じるので、生彩のある三鬼の筆が好ましく思える。 

世界中を放浪するエジプト人や元看護婦の娼婦、スピード狂の冒険家など、この小説の中で三鬼が紹介する奇妙な人々の多くは移動する者たちであり、国境や階層を越えて生きることを自明のこととして受け入れている。世界中の国々が互いを劣等人種と呼んで殺し合っていた時代では、それはある種法外な生き方だっただろう。
三鬼はそういう人たちに対してほとんど幻想を抱かず、ただ冷静な観察とほどよい親切心だけで向き合っている。 そこが良い。

自分がいた頃の記憶を思い出すと、神戸の街は海へ向かって落ちるすべり台のような姿をしているので、南北方向に坂を上り下りするのと東西方向に水平に歩くのでは印象が変わったのがおもしろかった。
垂直に移動すれば山の手から下町、港湾までの間に少しずつ経済の格差が広がっていくのが分かるし、東西に移動すれば町ごとのカラーが変わっていく。 
なんでもアリのごちゃ混ぜではなく、通りを一本抜けるたびに薄皮一枚ほどの変化を身体が感じるようなグラデーションのある町だった。 

『神戸』の登場人物たちも、コスモポリタンとは言えどんな場所に行っても自分を曲げないような人たちではなく、その場その場の色に合わせて変わり続けて生きてきた人たちだったのではないかと思う。三鬼の強靭な繊細さがその微細な心の動きをとらえている。