2014年6月30日月曜日

進む

by 梅津志保


6月初めに放送されたドラマを見忘れてしまったので、原作『みをつくし料理帖』(高田郁著・ハルキ文庫)を読むことにした。 女性料理人「澪」が周囲の人に厳しく、優しく諭されて、料理の道に生きるという時代小説だ。季節ごとの食材を用いた料理の話や江戸の暮らしが丁寧に描かれていて、今も繰り返し読んでいる。

その中で主人公がどんな料理人を目指すのか迷う場面がある。一流料亭の味を作る料理人か、町で暮らす人が喜ぶ気安い味を作る料理人か。最終的には「食は、人の天なり」という言葉に従い、食べる人を健やかにする料理人になりたいという想いに到達する。 
読みながら、私はどんな俳句を作る人になりたいだろうかと考えた。俳句という十七音が入る小さな器に、季語を入れ、自分の世界を作る。読んでもらう人にどんな気持ちになってもらいたいか、自分の気持ちが先走っていないか、自分らしい世界は作れているか、詩は生まれているか。 

まだ、どんな俳句を作る人になるか答えは出ない。でも、句集を読んでいて「なんて気持ちのいい俳句」「この俳句好き」という傾向は見えてきた。自分の欠点や良さも見つめて、コツコツ進んでいこう。

2014年6月24日火曜日

樹を伐るまでに

by 井上雪子


この一週間、大木を伐る仕事を見守っていた。16tクレーン車が通行許可を取ってやってきて、それはそれは見事な職人さんたちの手際、ほんとならハラハラしながら見守るだろう高さや危うさを確かな技量、綿密に計算・計画された美しい流れ、許されることなら日がな一日、見せて頂きたいと思うほど、危なげのない仕事の進め方で、かっこいいとか面白いなあとか思いながら見入ってしまうような毎日だった。

その一方で、腐食や枝折れという(人間の都合で)伐らざるを得ない樹の幹にチェーンソーが勢いよく滑り込んでいくさまには、なにか深い悲しみのようなものを感じてちょっと目を逸らしたくなる。命がけの作業ということの真剣さに加えて、この大木のいのちの終わりへの敬意のようなものがあるのだろう、作業中の現場は無駄な言葉がひとつもない、淀みのない一定の速さの整った空気に満ちていた。 

大木を伐る、そのための刃物に鑢をかけながら、朝の待ち時間のあいだに最年長の職人さんからお話を伺うことができた時のこと、いかなる時でも教えられた手順を守ることの大切さや、予測や予知とそれへの対応力とは結局はセンスなのだということ、そして素直に聞くという姿勢が何よりも必要という言、植物やお天気や季節を相手に仕事をしてこられた方ならではの澄んだ眼差しとともに、シンプルさのきわみのような言葉を、どこか俳句の世界に通底しているような言葉だと思う。

作業の前に刃のひとつひとつを研いでいく、大木を伐ることの意味の重さを知りつくした丁寧で無駄のない熟練の手つき、この素朴な真剣さこそが自然と向き合い続けることであるようなことと私には思われた。
樹を伐るまでに整えられる時間の長さを少しばかり理解したのだった。

2014年6月16日月曜日

梅雨と夏至

by 西村遼


私が一年の中でどの季節が一番苦手かといえば、トップは僅差で六月だ。
実は季節の変わり目の三月と九月も苦手なのだが、やはりじめじめ梅雨の圧倒的な負の存在感にはかなわない。

一日中垂れ込めている灰色の雲、視界をぼやけさせる雨、雨、雨、となるとまるで本で読んだ木星のガスの大気の下を思わせ、ちょっと季節感とか言っていられない。紫陽花などもろくに見ていない。

それくらい苦手な六月だが、実は私が一年の中で一番好きな季語は、六月の夏至なのだ。毎年夏至の日になると気分がぱっと晴れやいで、夏至に捧げる俳句を十句も二十句も作ったりする。ほとんどは残念な出来なのだが、夏至という概念の持つ宇宙的な感じが言葉にまっすぐ光を当てるような気がして楽しいのだ。

理屈でいえば夏至の日だからといって晴れるとは限らないが、晴れてしかるべきだという期待はいつも持っている。暦の上の言葉と実感にはしばしばズレがあるものだが、夏至くらいはそうであって欲しい。

2014年6月10日火曜日

繋がる

by 梅津志保


ウォーキングの途中、街のパン屋さんに寄り道し、メロンパンを買い、河原に座って食べた。 メロンパンは、気をつけて食べていても、ポロポロと崩れる。すぐに蟻が近づいてきた。蟻は、自分の体の大きさと変わらぬくらいのメロンパンの欠片を「どっこいしょ。」と持ち上げる。そのままスタスタと走り、河原の階段を数段上る。 蟻の姿は階段に同化して、また、メロンパンの欠片が大きすぎてよく見えない。私の目にはメロンパンの欠片が階段を上っているように見えて可笑しくなり、ついそのまま蟻を目で追った。

近くに巣穴があるのかと思いきや、蟻は道路を渡り始めた。 比較的車の往来は少なそうな道だが、ヒヤヒヤして見守った。蟻にとっては、長い道のりだろう。蟻は、そんな私の心配などもちろん知る由もなく、メロンパンを持ったまま、真っ直ぐに道路を進む。 ここでもメロンパンの欠片が道路を渡っているように見えたが、先ほどの可笑しい気持ちは吹き飛び、真剣に蟻を追う。無事渡りきれるか。 蟻の渡りきった道路の先には、小さな、けれど蟻にとっては、大きな野原が広がっていた。そこが蟻の住み処だ。蟻の姿はもう見えなくなっていた。

今まで、自分と蟻の関係なんて考えたこともなかった。でも、パンは私の体を、そして同じように蟻の命を支えるのだと思った。 「違う世界と思っていたけど、同じ物食べてるんだね。」と思うと楽しい気持ちになった。こぼれたパンを、命の糧を蟻がリレーしたことによって、命の繋がりや、生物との繋がりを感じることができたとても貴重な瞬間だった。

「繋がる」という言葉のたくさんの意味を教えてくれた、あの蟻の真っ直ぐな歩みを今でも時折思い出す。

2014年6月3日火曜日

夏の髪型

by 井上雪子


「あっ」と言ったまま二の句が継げない、そんな短さまで髪を切った。正確に言うと「短くしてパーマかけて」と美容師さんに言っただけなので、髪を切ってもらったというか、切られたというか。

しばしの驚きやら爆笑の後、「夏らしくていいね~」とか、「よく似合うよ」とか言って下さる方もいないことはないが、「勇気があるね」とか「精悍・・?」とか言われ、まあ、俳句って最高に短い詩型にはぴったりなのだと負け惜しみのように思ったりもする。

女子というものは、切ったか切ってないかわからないくらいの「いつも同じ」の髪型キープがメジャーであって、オシャレ番長は小まめに美容院に通うものなのだろう。私のように、たまに美容室に行って思い切り切るというパターンは、「けっこう髪型、変えますよね」という女子コメントになる。自分自身では単に短くしてパーマかけたにすぎないという認識なのだが、鏡を見ればやはりちょっと別人が映っていて、すれ違っても気づかない人もいる。

俳句という短い詩型の表現スタイルも、季節ごとにくっきり変えることができたらとても素敵なことだろうと私は思う。猫も私も早くも夏バテ気味だが、夏を楽しむところへ進もう。