2014年5月26日月曜日

球拾い、小銭拾い

by 西村遼


「先生、これどういう意味!?」
自分がボランティアをしている日本語教室では、授業中に何度もこの元気のいい質問が飛んでくる。そのたびにとっさに考え、辞書を大急ぎでめくり、スマートフォンで検索する。じゅうぶんに正しい答えがその場で用意できるとは限らないが、聞いてもムダだったとだけは思わせないように、次につながる答えをしようといつも思っている。

キャッチボールと同じで、どこに飛んだボールでも拾いにいってすぐに返すことが第一だ。いや、むしろ球拾いか。つぎつぎ飛んでくる痛烈な打球を追っていつも右往左往している。

この前は「安い男、軽い女」という表現が出た。テレビドラマの台詞らしいが、いつ使えばいいのかと聞かれて困った。直接だれかに言ったらたぶんケンカになると思う。

スマートフォンで今流行っているゲームの話もよく出てくる。自分もいっぱしのゲーマーのつもりだったのに、いつも知らない言葉が出てくる。外国人生徒たちの情報感度の方が自分よりずっとすごいので、いつも「ほうほう」と驚いてしまい、球拾いの仕事まで忘れそうになる。

この教室の生徒たちは皆おもしろい言葉や新しいものに目がない。それはただ異国で生活しているからではなくて、同じ立場の仲間と毎週闊達におしゃべりする時間があるおかげで、自分の日常の経験にそのたび新たな光が当たるからなのだと思う。

そういえば、自分が俳句や短詩系に興味を持ったのも海外生活中だった。英語漬けの生活の中で日本語禁断症状になり、手近にあった本を読みふけっているうちに、これなら何もなくてもできそうだと思って作りはじめた。そうなるとすぐに、最初期の何でも物珍しい時期を過ぎていささかうんざりしてきた外国の町の通りが、不思議な言葉や景色にあふれていることに気づいて、小銭をひろうように熱心にメモを取った。

今度の授業では俳句を紹介してみようと思う。日本人と同じような作品を作る必要はないし、日本語学習の道具になればいいというのでもないが、きっとこの表現もいつもの言葉への鋭い感度で吸収してくれるだろう。

2014年5月20日火曜日

真夜中のサツマイモ

by 梅津志保


「さて、このサツマイモをどうしようか」。 小腹が空いた私は、夜中、サツマイモを前にしばし考えた。たくさんの調理法がある。そして、調理する道具も。私は、蒸し器を取り出した。

なぜ、たくさんある調理道具の中から、蒸し器を選んだのか。 料理番組で言われそうなのは蒸し器を使うと「食材に中までふっくら火が通る」とか「おいしさを閉じ込める」といったこともあるかもしれない。でも、私はあの「湯気」が好きなのだ。 湯気に包まれる匂い、勢いのある湯気は「作っている最中ですよ。」という合図のようにも思える。そして、カタカタと鳴り出す蓋、その間中、私をワクワクさせる。
たくさんある季語の中から、適切な季語を選ぶことにも似ている。 特に、5月の今は、生命力にあふれた、元気を与えてくれるような季語が自分の周りにたくさんある。 今日は、どんなことに気がつき、感動し、季語を選び、表現したいと思うだろうか。

蒸し器を選んで良かった。サツマイモはとても甘かった。 サツマイモも季語も、適切に使用することで旨味が一層増してくる。

2014年5月12日月曜日

言葉じゃないから

by 井上雪子


いまどきなのかどうだか、仕事用に会社から携帯電話を頂き、(ほぼ)真面目に仕事の連絡をしているのですが、今日はびっくりするほど愉快なメールが返信されてきました。
文面たった3行、
「井上雪ちゃん(雪だるまの絵)
こんにちは(^_-)
了解しました(^o^)小熊拝」

背景には、ふたりのやわらかな宇宙人みたいなものが交互にバンザイしたり笑ったり・・・。
日本では3本指に入るとの評判も高い70才はゆうに越える職人さんからのその返信メール、ひとりにやにやしながら、しかしなんだか気になりすぎる・・・。
パソコンメール、携帯メール、丁寧にしたつもりの『ですます調』がなぜか切り口上な感じになってしまうから、言葉に敏感なひとは語尾に顔文字や「ね。」、「よ~。」と気を遣っていたりします。が、そんなビジネスマナーとは別の次元、言葉という意味を離れ(^o^)気持ちを伝える、こんな勇気がほしいね~とは思いつつ、俳句には永遠、そんな勇気は必要とされていませんね~(笑)。

けれど、手書きの葉書を頂いた時の「ああ」と瞬時に伝えられる心、ドアを開けた朝の風や光、すれ違う人たちの香りや匂い、歯触り・手触り、色調、重さ、大きさ・・・、言葉じゃないから伝わる何か。意味なんて伝わらないのに泣いてしまうような、言葉じゃないから伝わる、そんなものの力の大きさを、なんだかこの可笑しなメールに思うのです。
言葉が大好きで、言葉にしかできないことがたくさんあることを知っているけれど、言葉じゃないから伝わる力を受け取りながら、日々をゆっくり暮らしていきたいと思います。

2014年5月5日月曜日

石田徹也展-ノート、夢のしるし-

by 西村遼


平塚市美術館で開催されている石田徹也(1973~2005)の個展に行った。
氏の作風は、虚ろで悲しげな目をした青年(ほとんどの作品に同じ顔をした青年が何人も出てくる)が飛行機や洗面器、机、椅子などの日常的な物体と一体化しているシュールリアリスティックなものである。
グレーとブルーを基調色にしたキャンバスの中で、現代人の孤独、疲労、憂鬱といったテーマが目をそむけたくなるほど露に描かれているが、同時に、「姿勢」と「動作」に関する一種のユーモア感覚が、これらの絵を暗鬱なだけの世界から救っていると感じた。
すなわち、彼の作品では、人間とモノとは単に記号的に組み合わされているのではなく、その「動作」によって互いに近い存在になった瞬間が的確に捉えられている。この把握の仕方は俳句とも案外近いものがあるように思われる。

たとえば、人間が椅子と一体化している作品がある。「人間椅子」といえば、どんなポーズか伝わるだろう。スクワットを途中で止めるように中腰になって椅子そっくりのポーズをとれば、もともと椅子という製品は人間の身体の形状に沿い重なるようにデザインされていることに気づかされる。つまり椅子は人体を模倣しており、それに座ろうとするとき人体もまた椅子を模倣するのだ。

ほかにも、たとえば体育の授業では前屈みになって「跳び箱の台のポーズ」をとらされたことや、意固地になって人気のない階段に隠れるように座っている時には、姿勢も階段のように直線的にかたまったりしていたことを思い出せば、石田徹也の作品はぐっと身近なものになるだろう。

画家の想像力の中で、一人一人の人間は互いに区別がつかない大量生産の規格品のようなもので、精神のありようによって容易くモノとも区別がつかなくなる存在だった。それを現代社会の反転したアニミズムと呼ぶこともできるだろう。世界を擬人化してとらえるのではなくて、人間を世界や社会構造の一部品=モノとしてとらえる視点。その上で、何重にも反転した論理を尽くして、石田徹也はあるいはこう問いかけているようにも思えた。


「モノにも魂が宿るというのなら、人間にも魂があってもおかしくないのでは?……」

人間とモノとの境目があいまいになり、表現として沈黙に近づけば近づくほど、魂の所在を叫ぶ声はかえって高まるのだろうか。

失語して石階にあり鳥渡る 鈴木六林男
砲いんいん口あけて寝る歩兵たち 鈴木六林男


石田徹也-ノート、夢のしるし-

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2014201.htm
平塚市美術館

2014年4月12日(土)〜6月15日(日)