2014年2月24日月曜日

ポワン

by 西村遼


俳句のほとんどは歩きながら出てくる。
近所を散歩していて何か目に止まるものがあると、マンガのフキダシみたいなものがポワンと頭上に浮かび、そこが俳句を考えはじめる。自分で考えているという気はあまりしない。

雲みたいなフキダシは立ち止まったり座ったりするとすぐちりぢりになってしまうので、一度浮かんだらまとまった句の形になるまで歩き続けないといけない。そんな調子で15分のつもりだった散歩が2時間以上かかることもある。俳句はけっこうな体力を使うものだ。

ある日の夕方、田舎道を歩いていて、ふと仰ぎ見た高圧線の鉄塔にポワンときた。よく見れば鉄塔というのはおもしろい形をしているし、しかも一本一本ちがうのだ。今までそんなことに気づかなかった方が不思議なくらいで、これはおもしろい俳句になるかも知れない、と思った。

さっそく高圧線をたどって順番に鉄塔を見に行くことにしたが、しかしこれは思いのほか大変だった。鉄塔は人間の歩く道とは無関係に電力会社の都合で設置されているので、一本先の鉄塔にたどり着くためにふうふう言いながら丘を越え、工場を回り込み、川を渡る橋を見つけなければいけないこともある。

その時も、勾配がきつくて何も言葉が浮かばなかったので不毛な気がしてきて歩くのをやめた。そして石段を上がった先の神社の境内で休憩し、そこから田んぼと雑木林が交互に続く郊外の風景を見下ろすと、道路や農地のような人間の視線の高さで作られた仕切りを堂々と無視して等間隔にそびえる鉄塔の姿があった。

ふと、この景色の主役は鉄塔だと思った。私が鉄塔を見ているというより、鉄塔の方が、私や他の人間の生活も含めたこの夕刻の景色を悠然と見渡しているような気がした。擬人化というより、そっちが本当なのではないかとさえ。

サーモンピンクに染まった雲がポワンと鉄塔の上に浮かんでいた。あの中では今、鉄塔たちの俳句が生まれつつあるのかも知れない。

2014年2月18日火曜日

神様目線

by 井上雪子


職場のほど近くの立派な神社、その階段をゆっくりあがっていくと空はとても青く見え、二礼二拍一礼、頭の中を空っぽにしやすくなります。

しばらくの静けさが耳を洗って、さて、100円玉をころろ~ん、一番取りやすく見える巻紙をひとつ、開くまでのちょっとスリリングな気持ちを楽しみつつ職場に戻ります。
ああ、これは今の自分にとても適っている。「そうそう、正直に、まっすぐに・・・だね~」と、必ず頷いてしまう。
たとえそれが一方通行のあてずっぽうだとしても、「私」にダイレクトに語りかけられている言葉というのは、なにか幸福で開かれているような、ラブレターをもらったような温かさ。
心のもやもやにすーっと光が射すように「私」に届いてくる言葉、お御籤には、そんな不思議な力があります。

自分では気がつかないのですが、なにか嫌なことがあった後や、ちょっと新しいことを始めようと思う時に足を運んでいるからでしょうか、神様目線の表現と自分の目指す何かが共振しやすくなっているようにも思います。

あなたの幸福を誰よりも願っている私の言葉を信じなさい。
自然の法則に従うことがすべてです。
正しく優しく言葉を届けなさい。
いつの時代に誰が始めたのかは知りませんが、長い年月をサバイバルしてきた、確かな言葉の力のあり方、それはきっとひとの表現のはじめにあった祈り、詩歌の根っこの思いなのだと思います。

めずらしく大吉だったお御籤を読み返しながら、俳句もまた、そもそも言祝ぐものということを思い出しました。

2014年2月11日火曜日

by 梅津志保


モネは、どんな思いで、その風景を切り取って、描いていったのか。 

国立西洋美術館で開催中の「モネ 風景を見る眼」を観ました。 私が注目したのは、テーマになっている「風景を見る眼」。
印象派時代は、近代生活を取り巻く風景を切り取る視点や構図を模索したというモネ。モネがその眼で見たであろう風景、描き直したであろうキャンバス上の風景、モネの眼と私の眼が一体となり、美しさの普遍性と光があることの明るさ、艶やかさ、時間を超えて作品を共有している事実に一瞬「クラッ」としてしまいました。

そして、これは「俳句と同じではないか」と。
多くの事柄や風景から「これだ!」と思う、一番いい部分を感じ、それを切り取る。白いノートに書き(絵画なら白いキャンバスに描き)、自分の世界を作る。(これって結構気持ちがいいものです。)そして読んでくれる(絵画なら観てくれる)人と思いを共有する。

「眼」は「物事の本質を見通す力」や「要」という意味も持っています。
「梅津 風景を見る眼」をもっともっと鍛えて、自分の世界を広げていくこと。そんなことを思いながら国立西洋美術館を後にしました。

2014年2月4日火曜日

夢の殴り書き

by 西村遼


初夢というのは元旦に見る夢という説と二日の朝に見る夢という説の二つがあるとは聞いていましたが、それだけでなく三日の朝に見る夢という説もあるそうです。しかしどの説が正しいにせよ、夢を見たはしから即忘れてしまう私には残念ながら今年の初夢のご報告はできません。もしおぼえていられれば、このブログは以降数千文字に渡って我が神秘の内的世界の披瀝の場となったことでしょうが。
 
およそ他人が見た夢の話ほど愚にもつかない話はないと言われ続けていますが、それでもなお人に語ってみたくなるのも夢の不思議というもの。私はもともとわりあい印象のはっきりした夢を見る一方で、目覚めて数分で内容を忘れてしまうため、おぼえているうちに寝ぼけ眼でとっさに机上のメモに内容を書き付ける癖があるのですが、たとえば先日のメモにはこうあります。

昆虫戦士コオロギン

さあ、私の脳内で朝方どのような物語が展開したかご興味が生まれたでしょうか。それとも無言でこのブログの画面を閉じようとしたところでしょうか。残念なことに、私自身この夢について何一つ語るべき記憶を持たぬ今となっては、メモに下手な字で殴り書かれたこの単語のみが夢世界の私と現在の私とを結び付ける唯一の項なのです。
 
昔から「胡蝶の夢」とか「邯鄲一睡の夢」とかの故事が好きで、毎夜おもしろい夢が見たいと思いながら布団に入る子供でしたが、残念なことに夢の中の出来事を言語化して記憶するのが苦手で、ほとんどの場合はただ覚め際に一瞬の感情の波跡だけを残し、天井を見上げながらうっすらと悲しくなったり、変に気持ちが軽くなったり、やたら憤慨しているが理由は全くおぼえていなかったりと、夢はただ横ざまに脈絡なしの感情を日常に残していくものでした。もとより意味や物語など求めても仕方ないのでしょうが、忘却の一瞬前までは確かに何かあったはず、と思うと寂しいようなもったいないような気がします。

そういえば一度だけ、夢の中で短歌が浮かんだことがあります。翌朝メモにちゃんと定型に則った文字列が残っていた時にはやった!と思いましたが、改めて見ると、おもしろみは少しあるものの推敲不足、そもそも題材から練り直しが必要、類想あり、とお決まりのコースをたどり、これなら目覚めた時に作る方が早い、とのオチに行き着いたのでした。どっとはらい。

初夢に眼鏡忘れてきたりけり  西村 遼

はじめまして


はじめまして。
同人誌「豆句集 みつまめ」を作っている俳句ユニット「豆句集 みつまめ」メンバーの西村遼といいます。

昨年から今まで、立冬、立夏、立冬に合わせて三冊の「豆句集 みつまめ」をつくってきましたが、本日この2014年立春に合わせて新しいブログを立ち上げました。

俳句ブログみつまめ。

俳句についてのブログをみつまめメンバーが書きます。そのまんまです。
私、西村のほか、井上雪子、梅津志保の三名で、持ち回りで俳句のこと、身の回りのことや表現について考えたことを書いていくつもりです。
 
書くことは思いのほかむずかしいです。日常的なことを当たり前に書いたつもりでも、それを散文にすると逃げていくものが確かにあり、うまくいかぬと諦めたふりをしつつ、しかしまた隙を見てだっと獲物にとびかかる猫のごとき動作でもって、地道に考えていきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いします。

2014年 立春の日に

西村 遼