2016年5月8日日曜日

黄金週間

by 梅津志保


「空席は残り3席です。」3月、旅行会社の人に告げられた。女満別空港行きの飛行機のチケットをその場で予約して、黄金週間は知床に行くことに決めた。

3回目の知床。最初は夏、2回目は秋、今回は春(雪が降ったのでまだ冬に近かったが)。

知床の地に立つと、元気を得る。原生林と野生動物、土地の歴史が持つ力がそうさせるのか、清涼な空気なのか。誰の心にも、場所はどこでもいいのだけれどこのようなオアシスがあり、あってほしいと思う。疲れた時に思い出せば、脳や気持ちがクリアになる。特に忙しい現代では、必要なこと。

天候の悪化で観光船が欠航になるなどしていたとき、ホテルのガイドの方がお客さんに「また来てくださいね。季節によって知床はいろいろな顔を見せてくれますから。」と言っていたのが印象的だった。そう、自然相手なんだから、映画館やスマホじゃないのだから、雨に濡れず、時間通り始まるなんてことはない。自然を受け入れること。

今回は、知床峠も横断できず、知床五胡周辺も歩けないかなと思っていたが、荒れるオホーツク海を体感し、晴れてきたときは、雪が積もった知床連山に夕陽が当たる美しい瞬間を見ることができた。ほんとうにいろいろな顔を見せてくれるのだ。

2016年4月19日火曜日

つながる場所にいる時間

by 井上雪子


「たくさん買ってたくさん持つために、たくさん働いて、遊ぶことも忘れて、幸福ですか?」

ウルグアイから来日したムヒカ前大統領から、そう問われて、自分の身体や時間を、ましてや他者を大切にしてなかったなあと、あわてて身体や気持ちに謝ったりしてる。
それでも、風邪、なかなか治らない。クラプトンのコンサートに走っていく気力も出ないまま。

セブンイレブンのレジカウンターに熊本・大分震災への義援金箱があり、反射的にお釣りを入れる。

ただ、ひとの痛みが自分の痛みとしてカツーンと刺さらない。
自分がすべきことを自由にやっていく、そういう繋がっていく場所に立てていない気がする。

流れているもうひとつの時間の音、笑って待っているのが誰にせよ、あとどのくらい遠いのかさえ分からない場所。
月が一番遠くに見える春の夜、その一点。
禅僧のように掃除から始めようと、なんども何度も思うばかりで。

2016年3月22日火曜日

偽装する私と俳句

by 井上雪子


『保育園落ちた・・・まじいい加減にしろ日本。』
そんな匿名のブログがあっという間に国会まで駆け抜ける。このくらいの舌鋒や論理展開は珍しくはない。何が違うのかなと気になる。

ネットやテレビや新聞や雑誌、『表現』もまたいつの間にか、『素』という防護服を着ている気がする。『私』を偽装し、脚本や鋳型はないかのように笑い、自分の気持ちに疎くなっていく。いじめから逃れるこどもたちも同じだろうか。

『保育園落ちた』という、まったく個人的な問題を運が悪かったよね~とかではなく、『まじいい加減にしろ日本。』、『個人の不幸を国が見捨てていいのかよ』と白い旗を振る力。 日本人離れした土俵際での突っ張りに軍配はあがった。言ったっていいのだ、匿名なら・・・。

俳句は『元祖・偽装』、句会は匿名をもって旨とすべし、の世界。一読で誰の俳句かわかる個の表現の力よりも、季語、五・七・五、切れ字など、型(かなり広い土俵だが)を問う。

連歌からの独立とか子規の月並み俳句への攻撃、それは何のためだったのだろうか。

まったく個人的な感動を『まじ泣けよおまえ』とまで攻める度胸とツッパリを思う。リーゼントなんて絶滅したけど、そんな力士をこそっと創造して土俵に乗せ、ちょこっと笑う。言ったっていいのだ、匿名なら・・・。四股名のように俳号を考えてみる三月の月夜。

2016年3月16日水曜日

梅日記

by 梅津志保


苗字に花の名前(梅)が付いて十数年。梅は松竹梅の一番下、また春は桜に押され気味。そんな印象を持っていたが、苗字に花の名前があるというのもなにかの縁。今年は、いつも以上に梅の花を観察した。

近所の梅園の梅は、夜よく香る。雨上がりには深呼吸。2軒先のお家の庭には、赤と白の梅が咲き、おめでたい感じがする。

花や枝を観察すると、とてもいいなと思ったのは、花が枝を邪魔していないこと。枝の伸びやかさに寄り添うようにぽつぽつ咲く花の両方が春の空に伸びていてとても気持ちがいいと思った。

今日辺りは、梅園の梅の花も終わりに近づいていた。桜にバトンタッチ。来年も梅の花の観察して新たな発見をしたい。

2016年3月9日水曜日

歌が歌ではなくて

by 井上雪子


自宅の近くに大きくて新しいマクドナルドがある。そこでコーヒーを飲んでいたら、なんだか、不思議な音楽が流れてきた。たぶんヨーロッパ系の、しいて言えばロックっぽい曲なのだが、「意味を持たない」歌を歌おうとしている、そんな思いが伝わってくる。

マックの音楽はたぶん、聴くことを意識させないものが選ばれているのだろう、ふと気になり印象に残る音楽は珍しい。

低い、男のヴォーカルは歌詞をうたってはいない。 呪文とかお経でもなく、言葉でもない。メロディでもリズムでさえもない。これはなんだろう。

歌ではなくなるエッジの上の歌、 歳時記から放たれた俳句のようなものだろうか。 あの歌はどこへ向かって、届き、育つのだろうか。

2016年2月16日火曜日

ゴーシュの効き方

by 井上雪子


先週、久しぶりにジャズピアニストの友達のライブに行ってきた。夜のライブハウス、浦島太郎気分でぼんやりしていたが、乾いたドラムス、気持ちよく通り抜けていくギター、よく響くベース。筋肉が共振するかのように胸骨とか肩甲骨周りが痛くなる。聴くというより効く、眠くないのに眼を閉じる。『セロ弾きのゴーシュ』(宮沢賢治)の野ねずみの仔みたいだ。

私は元来(かつ未だ)ジャズは苦手なのだが、何故かすんなりと聴くことができるこの友人のピアノは、無心にけれど聴く人に向けて弾かれている、何だかそんな気がして、安心する。

会うのは7年ぶり、「変わらないね~」と言い合いながらも、「ピアノを弾く、ライブをする、そのために仕事してるみたいなもんだよ」という言葉に、私は「俳句のために仕事してるんだよ」って言い切れるのか、しみじみひそかに自問してしまう。

『セロ弾きのゴーシュ』は、悲しさが可笑しみに救われていく。やけっぱちな意地の悪さが粉々になるまで何度も躓くが、その努力はちいさな動物たちの無邪気さに磨いてもらいながら、無心の音に届いていく。

私は近頃、「いんどのとらがり」、練習してるだろうか。かっこうや仔狸が怖がらずに遊びに来るようなひと、私はそんなひとで在るのだろうか。雪のちらちらする如月、青い小さな栗の実を思う。

2016年2月1日月曜日

北帰向

by 梅津志保


「鶴の北帰向が確認されました。」数日前、そんなニュースを見た。私は、初めて聞く「北帰向」という言葉が胸に響いた。

文字通り、日本に渡ってきた鳥が、暖かくなりシベリアなどに帰ることをいうらしい。2月、早春が近づいていることを本能で知る鳥、数か月かけて飛ぶ鳥、日本の大地を飛び上がれば、そこから旅は始まる。昼も夜も飛ぶのだろうか。

その言葉は5文字。とても詩的な言葉だと思った。俳句の17文字でも少ないと思っていたけど、5文字でも力のある言葉に出会い、はっとさせられる。
多ければいいというものではなく、その言葉にどれだけの思いを馳せることができるか、重みがあるか。 研ぎ澄まされた言葉は、美しい佇まいをしている。